เข้าสู่ระบบお父さんの声が、少しだけ静かに落ちた。
「それはね、——地球を回復させるためだよ」 「地球を回復?」 窓の外を見ていたカナタも、運転席のお父さんを見つめた。 「そう。お父さんも、莉愛もカナタ君も、魔法を使う時に“人工魔法石”と“天然魔法石”を使うだろう? この“天然魔法石”っていうのが、地球のエネルギーである”地脈力”が宿っているんだ」 「地脈力……」 授業でその言葉は聞いたことがある。大地に流れる地球のエネルギーで、魔法使いや精霊の魔力の源と言われているんだっけ。 「地球の自然を増やすことで、地脈力を回復させられるから、少しでも自然を増やすために、私たち人間の住む場所を変える必要があったんだ」 お父さんの言葉を聞いて、私は小さい頃のことを思い出した。まだ保育所に通ってた頃、緑の教会の高い窓から下の世界を見た時のこと。 あの時、空の下には広い雲が海みたいに広がっていて、その雲の隙間からチラッとだけ見えた。ずっと下にある、大昔の人たちが住んでいた地上。 何だか遠くて、寂しそうで、でも少しだけ綺麗だった。 お父さんが静かに言った言葉に、カナタも私も黙って耳を傾ける。 「そうして大昔の偉大な魔法使いたちが、空に大陸を作ってくださって、私たち人間は、この空中大陸に住むことになったんだ」 その言葉が、私たちの世界の成り立ちを象徴しているようで、何だか胸が締め付けられるような思いがした。地球が抱えている問題に対して、私たちがどんな方法で向き合ってきたのか、その一端が少しだけ理解できた気がした。 「今も空中大陸が浮き続けていられるのは、中央都市にある巨大な魔法石と、七賢者《しちけんじゃ》たちのお陰なんだ。——リョク様のことだね」 リョク様—— 常盤町にある緑の教会にいる、緑の賢者。カナタが育った養護施設も、私が小さな頃に通っていた保育所も、元は前任の緑の賢者が作ってくれた場所だった。 そして今、リョク様はその後を継いだ二代目。最年少の賢者と言われているけど、本当の年齢を知る人は誰もいないらしい。 『リョク様って、見た目は子供ですけど……就任された時、誰も何も言わなかったんですか?』 カナタが、機械混じりの声で、いつものように遠慮のない質問を淡々とする。リョク様と付き合いが長いからか、たまにこうしてちょっと失礼なことも平気で口にする。 お父さんは少し笑って答えた。 「もちろん最初は言われていたよ。子供に都市の未来を任せるのかって、特に政治家たちは大騒ぎだった。でもな……」 車が赤信号で止まり、お父さんは窓の外に目をやった。冬の夜に滲む街灯の明かりが、運転席に光を照らす。 「実際に、二代目のリョク様が人前に立った時——誰も、何も言えなくなったんだ」 その言葉に、私は息を飲んだ。 「どうして?」 私が素直に尋ねると、お父さんは少し言葉を探すようにしてから、ゆっくりと答えた。 「何ていうか……オーラというか、溢れ出す魔力というか……難しいな。でも、みんなが自然と思ったんだよ。『あぁ、この人は賢者だ』って」 賢者《けんじゃ》—— 魔械《マギア》義肢の制御で使えないはずの“治癒魔法”や“自然魔法”を使える魔法使いたちのことを、私たちは賢者と呼んでいる。七人いるため、まとめて七賢者《しちけんじゃ》と呼ばれている。彼らは並外れて魔力が強いと言われていて、私たちにとっては憧れの存在だ。 カナタの方を見ると、なぜかそっぽを向いていた。せっかくリョク様のカッコいい話をしていたのに、カナタはちょっと不機嫌そうだった。 私は小さく息を吐いて、何となく思いついたことを口にした。 「その、空に大陸を作ったのも……七賢者《しちけんじゃ》だったりするの?」 お父さんは、驚いたように目を丸くして、それからにっこり笑った。 「お、莉愛、鋭いな。実はそう言われているんだよ」 「えぇっ!?」 思わず大きな声を上げてしまった。隣でカナタも、目を丸くしてこっちを見ている。 「正確には、赤の賢者、橙の賢者、黄の賢者、それに前任の緑の賢者、紫の賢者の五人だね。青の賢者と藍の賢者は、空中大陸ができた後に就任した人たちだよ。」 『でも……この空中大陸って、できてからもう直ぐ百年になるんですよね? 年齢が……』 カナタが質問をしながら考え込んでしまった。確かに、赤の賢者と橙の賢者はお父さんやお母さんと同じくらいに見えるし、黄の賢者は二十代くらい。 藍の賢者、紫の賢者は三十代くらいに見えるし、それに青の賢者に至っては、十八歳くらいに見える。 お父さんは、苦笑いを浮かべた。 「そうなんだよなあ……。リョク様以外は、世代交代をしていない。賢者たちは空中大陸を維持しなきゃいけないし、みんなの生活を支えてくれているから、何かしらの魔法か精霊の加護で、不老になっているって噂されてるんだ。でも、本当のところは教えてくれないんだよ」 信号が青に変わり、車が静かに動き出す。窓の外を流れる景色を眺めながら、お父さんの話を思い返していると、私は改めて七賢者《しちけんじゃ》の凄さを実感していた。 そのままぼんやりと考え事をしていたら、ふと頭に浮かんだ疑問があった。 「お父さん、私たちが魔法を使えるのは、魔械《マギア》義肢の魔法石と魔械歯車《マギアギア》のお陰だよね?」 ハンドルを握りながら、お父さんが小さく頷く。 「そうだよ」 「じゃあさ、自分自身の魔力って使ってないの?」 私がそう質問すると、お父さんは少し考えてから、穏やかに答えた。 「良い質問だね。自分自身の魔力は、魔法自体には使われていないんだ。どんな魔法を使うかとか、感覚的に魔力を感じることや、あとは魔械《マギア》義肢を自分の手足のように使うためとか、生きるために使われるんだ」 私とカナタは、ジッとお父さんの話を聞いた。 「じゃあ、二人共、自分自身の魔力って結局何だと思う?」 お父さんが、少し挑戦的な目を向けてきた。 カナタが少し考え込み、静かな声で答えた。 『自分自身の魔力……か。多分、それは“意志”だと思います。魔法って、ただ力を使うだけじゃなくて、自分の考えや願いを形にするためのものだから』 私もじっと考えてみた。自分の魔力って、一体なんだろう。 「私の魔力は……うーん、“気持ち”かな? 魔法を使う時って、自分の気持ちが一番大事な気がする。嬉しい時も、悲しい時も、魔法の力が強くなる感じがするから」 お父さんは、少し驚いたように目を見開いて、それから優しく微笑んだ。 「……なるほど、二人共、よく考えてるね。カナタ君は“意志”莉愛は“気持ち”どちらも正解だと思うよ。魔力というのは、ただの力じゃなく、心が込められているものだからね」 私たちはお父さんの言葉に、何だか嬉しくなった。魔法って、力だけじゃない。心があってこそのものなんだ。 「自分の魔力を大切にしなさい、そして、魔法を使う時は、しっかりと心を込めることを忘れないで」 『しっかり、込める……』 カナタは何かを深く考えるように腕を組んで、右手を握り本来あるはずの口元に当て、目の前の宙をじっと眺めていた。 カナタが考え事をする時にするクセ。 その静かな仕草からも、カナタが今すごく考えているのが伝わってきた。 お父さんは、信号待ちの間にチラリとこちらを見た。その目はいつもの優しいお父さんのままだったけど、どこか遠くを見ているみたいにも思えた。 「魔法は、心が籠《こも》ると強くなる。だから、心が荒れたまま使えば、そのまま誰かを傷つけることにもなるんだ。自分を大事にできない人には、本当の意味で魔法は使えない」 「……自分を大事に」 私は、胸の奥に小さく火が灯るような気持ちになった。魔法が特別なんじゃない。私たち一人ひとりの心が、特別なんだ。 『……ねえ、おじさん』 カナタが、少し迷うように声を出した。運転するお父さんの後ろの席から、言葉を探すように続ける。 『じゃあ、もし自分の心が、ぐちゃぐちゃな時に魔法を使ったら……どうなってしまいますか?』 カナタの声は、とても真剣だった。冗談とか、何となく言ったって感じじゃなくて、本当にそう思ってるんだなって分かった。 もしかして、前にそんな経験があったのかな。自分でそういう魔法を使ったとか、そんな人を見たことがあるとか。 私はカナタの横顔をジッと見つめた。カナタは、ただ黙って前を向いていた。しばらくして、お父さんがゆっくりと口を開いた。 「それは……暴走するかもしれないな」 淡々とした声だったけれど、その言葉には、どこか重さがあった。 「でも……どうだろう。ぐちゃぐちゃだと思っていても、実はそれ、ものすごく強い感情の爆発なのかもしれないんだ。痛みとか怒りとか悲しみとか、そういう気持ちが全部混ざって……それが魔法になると、多分、ものすごく強いものになると思う」 お父さんは、前を向いたまま、言葉を続ける。 「強力すぎて……もしかしたら、何かしらの代償があるかもしれない。魔法って、心の力だから。心が壊れそうな時に使うと、代わりに何か大事なものを失うことがあるんだよ」 「じゃあ……やっぱり使っちゃダメなの?」 そう聞いた私に、お父さんはすぐに首を振った。 「ううん、お父さんはそうは思わないよ。例え心がぐちゃぐちゃでも、弱っていたとしても……魔法を使ってもいいんだ。ただね、その時は、自分が今どんな気持ちなのかを、ちゃんと分かっていてほしい」 『……分かってること、か』 隣で、カナタがポツリと呟いた。その声は小さいけど、どこか深くて、胸に残る響きだった。 私は、何となく自分の義手を見つめながら、これまで魔法を使った時のことを思い出していた。楽しかった時、悲しかった時、どうしようもなく不安だった時。あの瞬間、私の魔法は、どんなふうに輝いていたんだろう。 「魔法は、心の鏡みたいなものだからね」 お父さんが、にっこりと笑った。 「自分の心を映して、そのまま世界に送り出す。それが魔法だよ」 すっかり暗くなった道を走る車の中で、私はそっと胸に手を当てた。私の心は、今、ちゃんと温かい。だから、きっと、大丈夫。 カナタの方を見たら、カナタもすぐに気付いて、こっちを見てくれた。何だか可笑しくなって笑うと、カナタの目元がふわりと笑った。それだけで、胸の中がぽかぽか温かくなった。お父さんとお母さん、私とカナタの四人でゆっくりと校門へ向かって歩いて行く。 道の両脇では、桜が疎《まば》らに咲き始めていた。まだ満開には程遠いけど、淡いピンクが所々枝先を彩り小さな春のトンネルを作っていた。 入学式の頃には、あの花たちも全部咲いているのかな。そんなことを考えながら歩いていたら、ふと視線の先に詩乃ちゃんが見えた。 誰かに手を振って帰って行った。相手は門の柱に遮られてよく見えない。 もう少し近付いたところで、ようやく相手の姿がはっきり見えた。 ——拓斗だった。「あらっ、どうも先程ぶりです」 お母さんが拓斗のお母さんとお父さんに声をかける。 向こうも笑顔で応じて、お喋りが始まった。何となく私たち三人は、横並びになると、私は拓斗に話しかけた。「……拓斗って、詩乃ちゃんと仲良かったっけ?」「……別に。普通に話すくらいだろ」 あっさりした返事。でも私の中では少し引っかかった。二人が一緒にいるところなんて、今まで見たことなかったから。「ふ〜ん……」 気にしない振りをしながらも、何となく視線を拓斗の方へ送ってしまう。 その時、不意にお父さんが私を呼んだ。「莉愛、ちょっと来てくれないかな?」「えっ」 写真を撮る場所の確認みたいだった。でも私は、思わず声を漏らしてしまった。 今ここを離れたら、カナタと拓斗が二人きりになってしまう。今は取り巻きがいないけど、あまり二人きりにしたくなくて、離れたくなかった。 でも、そんな私の気持ちを汲んだように、カナタが静かに言った。『……大丈夫だよ、莉愛』 その瞳は穏やかで、少しだけ背中を押してくれるような優しさがあった。 拓斗の親もいるし、きっと変なことにはならない。それは分かっていたけど、それでも何だか落ち着かない。「……分かった。ちょっと行ってくるね」 私はカナタにそっと言い、後ろ髪を引かれたまま、お父さんのところに向かって歩き出した。「一人で撮る時は、こっち側かなぁ。二人で撮る時は……くっついて撮るか、真ん中を挟むか……」 お父さんは、校門のそばに立てられた“卒業式”の看板の横に私を立たせて、独り言のようにぶつぶつと呟きながら、撮影の構図を考えている。 私は素直に従いながらも、目線だけは少し横に向けていた。 ——カナタと拓斗。あの二人が今、どうしているかが気になって仕方な
驚きの余韻がまだ教室の空気を支配していた。 クラスメイトたちは口を半開きにしたまま硬直し、お母さんたちもただ呆然と立ち尽くしていた。まるで現実と夢の間に取り残されたような、そんな沈黙が流れる。 その静かな空間を現実へ引き戻したのは、ゆっくりと開く教室の扉を開けた先生だった。 袴姿の先生が入ってきた瞬間、今私たちは卒業の日だったことを思い出した。 前に立った先生の目元は、ほんのり赤く滲んでいるように見えた。「お待たせしました。……それでは…..最後の学活をしたいと思います」 “最後の学活” その言葉に、教室の空気がふっと張りつめた。ざわざわと心が揺れて、言葉にならない思いが胸の奥で波打つ。 本当に、これでおしまいなんだ——その実感が、ようやくみんなに降りてきた。「先生、昨日フライングして色々喋っちゃったので、今日は何を話そうかずっと悩んでいたんです。でも……やっぱり、みんなには、感謝しかありません」 先生は静かに目を閉じて、少しだけ微笑んだ。その表情は、過ぎ去った日々を胸の中で辿っているように見えた。「実は先生、一年生から六年生まで担任を続けられたのは、みんなが初めてなんです。産休や育休で、途中の学年を受け持ったことはあります。でも…本当に、一から卒業まで見届けたのは初めてでした」 声は時々掠れながら、真っ直ぐ私たちに向けられていた。「だから、毎年毎日、たくさん悩みました。落ち込んで、不安で……。それでも、みんながいてくれたから、前を向けました」「みんなは、優しくて、強くて、やんちゃで……時にはぶつかったこともあったけど、私はそんなみんなが大好きです。……私は……まだまだ未熟な教師です。でも……そんな私を、みんなが支えてくれました」 抑えていた感情が、先生の瞳から零れ落ちる。教室のあちこちから、啜り泣く声が静かに広がっていく。 私の目にも、涙が溢れてた。 それでも、先生は最後まで言葉を止めなかった。「私を……みんなの先生にさせてくれて……ありがとうございました」 先生が、教卓にぶつかってしまうのではないかと思うほど深々と頭を下げた、その瞬間だった。 教室の空気がふわりと柔らかく、だけど胸の奥がキュッと締めつけられるような、温かくて切ない何かで満たされていくのを感じた。 誰もがそれを言葉にはしなかった。ただ、心の波紋がひとつ
体育館を出ると、先生の後に続いて廊下を静かに歩いていく。歩く度に鳴る小さな靴音が、どこか名残惜しそうに響いていた。 この後、卒業生と保護者が揃って、校舎の前でクラスごとの記念撮影がある。 前の方に俯きながら歩く詩乃ちゃんが見えて、私は思わず駆け寄った。「……詩乃ちゃん」 泣いてるかと思って顔を覗き込むと、目元に少し涙の跡と、潤んだ瞳があった。 それだけで、泣き出しそうなのを踏み止まったんだなと思えた。「……えへへ」 泣きそうになってるのがバレちゃったからか、詩乃ちゃんはちょっと照れくさそうに笑った。 その顔が何だか可愛くて、私も少し笑ってしまう。 どうしたら元気が出るかなって考えて、私はそっと右手を伸ばして詩乃ちゃんの左手を繋いだ。 お互いの、生身の手同士。温かさがじんわりと伝わってきて、それだけで胸の中が少しほぐれる気がした。 最初、詩乃ちゃんは少しビックリしたみたいに目を丸くしていたけど、すぐにふわっと笑ってギュッと握り返してくれた。 私たちは手を繋いだまま、一緒に校庭に向かった。 靴を履き替えて正面玄関を出ると、校庭の真ん中には、すでに撮影用の椅子がずらりと並べられていた。 順番が来るまで邪魔にならない場所で、自分のクラスごとにまとまって待機する。 詩乃ちゃんと私は、手を繋いだままその場に立っていた。繋いだ手の温かさが、もう少しで卒業式が終わってしまう寂しさを和らげてくれる気がして、離す気にはなれなかった。 そこへ、カナタがふらりと近付いてくる。『ん……手、繋いでどうしたの?』 その問いかけに、私は胸を張って笑顔を返した。「ん〜? 詩乃ちゃんのことが大好きだから繋いでるのっ!」「そっ! 両思いなのっ!」 私たちは、まるで自慢でもするみたいに、ギュッと繋いだ手を見せびらかした。 カナタは無表情のまま、それをジッと見つめていたけど、その様子が何だか可笑しくて、詩乃ちゃんと私は顔を見合わせて笑った。「よっ! カナタ。制服、違和感ないな」 背後から軽やかな声が響いて、振り返ると利玖が立っていた。みんなよりも背が高く、自分たちとは少し違う制服姿の利玖に、周囲の子たちの視線が集まる。 高等部の生徒を見ることなんて滅多にないから、それはそれは目立つ。「あれ? お母さんたちは?」「何か、保護者向けに先生たちが説明してた
廊下を歩いていると、他のクラスの友達とすれ違い様に手を張り合ったり小さく笑い合ったりした。 だけどその度に、やっぱりカナタの姿はどこにも見えなくて胸の奥が静かにざわついた。 ——きっと遅れてるだけ。そう自分に言い聞かせながら、私は体育準備室に向かった。 体育館へ続く渡り廊下に出ると、目の前に広がる空は雲ひとつなく澄みきっていて、春の陽射しが優しく降り注いでいた。 私が一番乗りかな? そんなことを思いながら角を曲がると—— その先に、中等部の制服を着た三人の姿が見えた。 そして、その中のひとりと視線が重なる。 見慣れた黒髪が、春の日差しを受けてほんのりと緑がかった光を帯びていた。少し吊り気味で、鋭くもどこか物憂げな眼差しだけど、優しさを含ませた目元。そして無機質な黒い鋼鉄のマスク。「カナタっ!」 自然と声が溢れて、私は思わず駆け足になっていた。「ん? あ、莉愛だ」「ほんとだっ、おはよ〜!」 その場にいたもう二人も、私の声に気付いてにこやかに挨拶してくれる。「おはよっ!」『おはよ』 私は手を振りながら笑って返す。心が一気にほどけていくのを感じた。カナタも短く返事をしてくれた。 その一言が嬉しくて。会えた喜びとさっきまでの不安と駆け足で近付いたせいとが一緒になって、心臓がドキドキしていた。「教室にいないから、ビックリしたよ! 三人共、どうしたの?」 私が尋ねると、男の子が肩をすくめて言った。「いや〜、珍しくリョク様の支度が遅れてさ〜」「ね。うちらはいつも通りに、準備終わってたんだけどね」 もうひとりもそう付け加えてくれて、ようやく胸を撫で下ろした。何かあったわけではないようだった。「事故でもあったのかって、心配しちゃったよ〜。あ、そうだ、八時五十分までに体育準備室集合だって! なるべくクラスでまとまっててくださいって」「そっか。じゃあ行こうか」「先に行ってるね〜」 二人は手を振って、軽やかに歩いて行ってしまった。すると私とカナタだけが渡り廊下に取り残される。 カナタと目が合った。私と同じ羽織にワイシャツ、ダークグレーのスラックスに黒い革靴。いつもより少し背筋が伸びて見えるその姿に、胸の奥がキュンと鳴る。こんなふうにドキドキするのは初めてかもしれない。 それを誤魔化すように、私はお父さんとお母さんに見せたみたいに、く
車が学校の駐車場に滑り込むように停まった。見渡すと、もう他の家の車も並んでいた。 時計を見ると、まだ八時五分。集合時間にはまだ時間があるけど、やっぱりみんな考えることは似ているらしい。 車のエンジンが止まってドアのロックが開く音が聞こえたから、私は車のドアを開けて降りた。朝の空気はまだ少し冷んやりしていて、長い袖が風に揺れた。 後ろでドアを閉めた利玖がちょっとぐったりした様子でいることに気付いて、私はすかさず声をかけた。「やっぱり酔ったでしょ」「卒業式が始まる頃には治るさ。……多分」 利玖は軽く口角を上げて返してくる。うん、冗談が言えるなら大丈夫だ。「それじゃあ、校門から入ろうか」 お父さんが車に鍵をかけながら、みんなを促した。お母さんは小さく頷き、私は深呼吸をひとつして、通い慣れた校門へと歩き出した。 今日はいつもと違う。制服も、気持ちも、全部がちょっとだけ大人びている。 正面玄関へ足を踏み入れると、袴姿の先生たちが並んで立ち、にこやかに「おはようございます」と声をかけてくれる。 みんなの胸元には、綺麗な白いリボンのようなものが付けられていて、いつもとは違う雰囲気。少しだけ背筋が伸びる。「おはようございます」 私がペコリと頭を下げると、その中のひとりがパッと顔を明るくして声を上げた。「はいっ、莉愛さん、おはようございます! 卒業おめでとうございます」 見覚えのあるその声に顔を向けると、雷斗《らいと》先生だった。利玖の初等部時代の担任の先生。背が高くていつもエネルギッシュで、どこか“お兄ちゃん先生”って呼びたくなる雰囲気の人。 雷斗《らいと》先生が私にピンクのリボンのバッチをくれた。そして私の隣にいた利玖の顔を見るなり目を丸くする。「えっ! 利玖か! うわっ、背ぇ伸びたなー! ……どうした? ぐったりして」「……ちょっと酔った」 利玖がむにゃっとした声で応えると雷斗《らいと》先生は大きく笑った。「はははっ! 卒業式が終わるまで座ってな! 莉愛さんのお父さんお母さん、本日はおめでとうございます」 さっきまでの砕けた口調から一転、きちんと背を正して、お父さんとお母さんに丁寧に頭を下げる。その切り替えの早さに、ちょっとだけ笑ってしまいそうになった。 お父さんとお母さんもにこやかに「ありがとうございます」と返して、互いに頭を下
「莉愛は、どこの寮になるのかしら? 入学式が楽しみねっ」 お母さんの声が背後からふわりと届く。お母さんが丁寧に私の髪を梳かしている。櫛が髪を通る度に静かな音がして、その度に髪が整えられていく。鏡越しに目が合うと、お母さんはニコッと笑った。「十二個も寮があったら、カナタとは離れちゃうかなぁ?」 お母さんと利玖に問いかけてみると、部屋の勉強机に腕を組んで寄りかかっていた利玖がふっと笑った。「いや〜、そもそもカナタと莉愛は別の寮だろ〜」 利玖が肩をすくめて笑いながら口を挟む。あまりにも当然のように言うものだから、私は思わず頬を膨らませて口を尖らせた。「ん〜、カナタは卯月寮か文月寮とかじゃないかな? 莉愛は〜……如月寮か弥生寮か……水無月寮とかかな?」 それぞれの寮に特徴があるのか、顎に手を当てて予想する利玖の声にお母さんもクスッと笑う。「お母さんも、如月寮じゃないかって思ってるのよねぇ」 お母さんが私の髪を整えながらそう言った。柔らかな声に何だか胸がドキドキした。 未来のことはまだ分からないけど、名前だけでこんなにも想像が膨らんで楽しくなるのは、きっとこれが「はじまり」の前だからだ。「さぁ、出来ました。回って見せて」 お母さんが少し後ろへ下がりながら、嬉しそうに手を叩いた。私はその場でくるりと二度、軽やかに回って見せる。長く仕立てられた袖が空気を含んで、ふわりと舞った。「うんっ、素敵ね」 お母さんの頬が緩む。その笑顔を見て、胸の奥がふっとくすぐったくなった。嬉しくて、でも何だか照れくさくて落ち着かないような——そんな、こそばゆい気持ちが心の中をクルクル回る。「中等部の話もワクワクするけど……今日は初等部の卒業式だからね。最後の校舎に、きちんとお別れと感謝を伝えないと」 お母さんの言葉に、私は通い慣れた校舎を思い出してみる。 歩き慣れた廊下。教室の景色。いつもと違う服を着た今、あの場所にもう一度立つことが、少しだけ特別に思えた。「それじゃあ、お母さんも着替えて準備してくるから、二人共リビングで待っててくれる?」「「はーい」」 二人で返事をして部屋のドアへ向かうと、利玖もその後に続いた。 二人で並んでリビングへ向かうと、そこにはフォーマルな黒色のスーツに身を包んだお父さんの姿。常盤色のネクタイを器用に結んでいる最中だった。 ふとこ







